そのストレートすぎるタイトルや内容から、一時は上映禁止に追い込まれた作品ですが、ドキュメンタリー好きとしても、仕事で日々東亜諸国の方々と顔を合わせる身としても、観ておきたいと思い。
私にとっては、ごくたまにしか行かない、行っても境内でお弁当を食べるとか散策するような場所ですが、毎年の8月15日には全く異なる表情を見せる場所。
監督が繰り返し使うのは、「靖国神社は様々な人たちが集うステージ」という言葉。日本では「終戦記念日」であるこの日は、韓国では××、中国では××…と、国によって捉え方も異なります。映画の中で映される様々な立場の人の涙や発言で、そんなことを思い出しました。
日本軍がアジア各国でしたことが「侵略戦争」という言葉で表されることがありますが、これは事実であると思います。実際に、名前を奪われ、言語を奪われ、思想を奪われ、果ては代々続くべき命まで奪われたのだから。先日の日韓の意識調査でも、「日韓の過去の歴史問題は清算されたか」という問いに、日本では6割の若者が「された」と回答したのに対して、韓国はわずか1割。李大統領の「人とケンカしたとき、殴られたほうはそれをずっと忘れないものだ」という言葉も呼び起こされました。
それをしたのは、私たちの父や母、また祖父母の代の人々。つまりほとんどが、国から命を受けた一般国民だったことを忘れてはいけない。軍国主義であった当時、「お国のために」と誇らしげに散っていった命もまた、被害者と言えばそうなのです。自由な思想、ペンや絵筆の代わりに武器を持たされ、隣人を尊び愛する代わりに命を奪うよう教えられた。そして何より大切なことは、物質的に豊かで便利なこの社会(平和ボケしているとまで外国諸国から揶揄されるほどですが)で私たちが生きていられるのは、その当時の人々の労苦、辛苦があったからこそなのだということをまざまざと見せつけられました。
この映画を見て、日本に対して愛国心が芽生えたわけでも、宗教について考え方がかわったわけでもなく、この映画の見所は、とか、印象に残ったシーンはと聞かれても答えられない。
観たあとで私が感じたのは、現代社会のひずみのような部分でした。多くの人たちが、ただなんとなく日々を生きているのだとしか思っていないことに非常に危機を感じました。最近、硫化水素だかなんだかでの自殺が多いのも、結局は自分のことしか考えていないから。そして何故自殺が増えてしまったのか真摯に受け止めず、闇雲に生活を苦しめる対応しかとれない政府にも憤りを覚えます。もっと身近に言えば、町中で誰かとぶつかったとき素直にごめんなさいと言える人がどのくらいいるでしょうか。優先席ではスイッチオフというシールを横目にケータイを眺めている人も多いです。 実際には、他人は他人なんだから、その人について理解することはできない。だから…と理由をつけて人と関わりを持つことを避けるようになってしまったと思います。いつの間にか私たちは、他人を避け、関わりを拒むようになってしまったのではないでしょうか。
この映画を観て、それではいけないのだということに気付かされました。まず監督が中国人であること。ここに私は惹かれました。普通であれば自分の国を苦しめた人物が「英霊」として祀られた場所へなど、行きたいと思わないはずで、私自身もよく教え子から「靖国なんて」と言われます。しかし彼は実に冷静にこの場を見つめているのが、映画を通して伝わってきました。そして、彼自身が「監督」という枠をとっぱらって、一個人としても中国人としても靖国と向き合う必要があり、その意義や回答というのもまだ出ていないように思いました。実は、私自身もそうです。この映画を観たから、靖国に対してどう思うとか、第二次世界大戦についてどう思うかという回答は、特に戦争を知らない世代には得られないかもしれません。でも、大事なことは、この映画を観ることにより、結論が出せなくてもいい、とにかく今までのように「よくわからない」で済ましてはいけないということ、何があったのかを知らねばいけないことでしょう。
印象的だったことを一つ。映画館を出たときに、近くにいたおっちゃんが、刀をぶんぶん振る真似をしながら、「こっちを言いたかったのか、『ヤスクニ』を言いたかったのか、意味がわかんねー映画だった」と言っていたこと。初めは「映画の見方も知らないおっさんめ」と思ったのですが、大事なのは、この映画は映画としては未完成で、観た人がどんな感想を持つか、それで初めて完結する、詩のような映画なのだろうと思いました。
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