先日学校でちょっと冷や汗をかくようなことがありました。
霊感はないと思うけど、感受性が強いほうではあります。
去年は誰にも見えない「先生」に挨拶しちゃってたわたし。
(このお話はまた改めますが)
先日も代講入った日に聴解やることになってたのですが、使うはずのCDが見つからなくて代わりに見つけたテープを使おうと思い、休み時間に頭出しをしておいたんです。
でも実際使おうとしたら全然ちがう部分が流れ始めました。
頭出ししたときは学生も一緒に聞いてて、「ここからだね」って確認していたので、いざ授業で再生ボタンを押したら学生共々「あら?」って首を傾げることに。
A面とB面間違えたかって思ったけど、いやいや、そんなこともなく。
原因がわからないのです。
久しぶりの更新でこんな話をしているわたしが物の怪?!
(また更新するから〜)
もうこのblog、閉じたと思われた方がほっとんどでしょう☆
しかしその思いを裏切ります :-)
いやいや…ホントにいろんなことがありすぎました。
副業なんか始めちゃったもので、こっちに手が回らなかったというのが事実デス。
でも!
何があろうと!
このお仕事を、もう少し頑張ろう☆という気持ちになりました。
実は今年で、日本語教師歴が10年になります。
ちょっと信じられない。実際、まだまだだし。
私は、「石の上にも10年」だと思ってます。
3年なんて足りない。まずは10年やらなきゃ、本質は見えない。
でも、この仕事の本質は、実はまだわかっていないのです。
そういう意味で、まだ成長できるんじゃないかと、思うのです。
先日、ある卒業生と会食した際「お姉さん(卒業したのでもう「先生」ではないらしい)、全然変わってないね。それ、いいことじゃないよ。変わってないって、『成長していない』ってことなんだから」と言われました。
すごく、突き刺さりました。良い意味で。
自分の、中途半端なところが嫌。
もっと柔軟になりたい。
敏感になりたい。
器が大きくなりたい。
そういう思いが、ガンガン湧きました。
だから、もう少し、もう少しだけ、やってみます!!!
というわけで、『にほんご手帖』、再始動〜♪
求人見ると…
上海で月30万円とかあるのね…
同じ仕事でなぜ日本のほうが安いのだろうか。
数年前、ビザ申請しても3%ぐらいしか許可が下りなかったとき。
(つまり学生を100人入れたくても3人しか来日しなかった)
これで仕事が減り(またはなくなり)、思いきって派遣の道を
選んだ人も多い。
で、この冬。
いつになく入国許可率が高い。
職場では4クラス作れればいいと思っていた程度だったらしいけど
なんと7、8クラスできちゃうらしい。
人が足りない。だけどその時期に派遣切り。
数年前離職した人たちが一気に戻ってくるのかな?
私のまわりは時事問題でぐるぐるです。
気がつけば「日本語教師」と呼ばれる職に就いて10年。
良くも悪くも色々なことがありました。
最初は月3万だった収入。正直、大卒なのに実家を出られないというジレンマに陥り、家では仕事の理解も得られず…仕事そのものは楽しかったけれど、帰ってきたときに形容しがたいストレスを感じていました。
その収入も今や約8倍。決して時給が上がったわけではないんです。立ち回りが多少うまくなったのと、一般企業と契約ができたから。やっと家を出る余裕もでき、一人暮らしを始めたのも束の間、来ましたよサブプライムが私のところにも。
私はここ数年、午前中と夜間の2部制(と、勝手に呼んでいる)で仕事をしています。日中は日本語学校、夜は一般企業に勤めるエンジニアを対象とした授業。しかし。しかしです。夜間担当していたエンジニアがごっそり帰国決定。新聞に「従業員削減」の見出しが大きく載った翌朝には「急に帰ることになりました」と連絡が。おいおい、そりゃないよ!
正直、そこでの収入が全収入の半分近くを占めていたので、経済的に、また振り出しに…とはいわないまでも、厳しい状況には違いありません。でもね、日本語教師ってもともとが薄給だから、こういう時わりと平然としていられるんですよね。今は家賃と光熱費以外は一日100円以内で過ごしています。中国滞在時代の生活の知恵も今ここで大いに生かされてます(笑)
普通にしてても決して「家庭的」とは言われずなぜか「サバイバー」と呼ばれる私。意外とできるもんですね。
ふんばりますよ!
行ってきました、「レオナール・フジタ展」。
早めに行こうと思っていたのですが、師走の慌ただしさといったらなかったので…気がつけばもう残りあと数日!
…私、三度の食事よりネコが好きで、そのうえフジタの風貌がどこか父に似ているということもあって(昔、父は丸メガネにチョビひげ、そしておかっぱだったのです)子どものときから彼の存在や描くものが心のどっかにありました。
(そういえば私の大好きな喫茶店「乱歩゜」にもフジタの絵があったはず)
フジタは、晩年過ごした小さな家での調度品や小物類の多くを、自らの手で作っていたそうで、その中のひとつに食器があります。展示されていた自作のお皿を見 ていたお客さんの多くが「これだけにしておくの勿体ないよね」と話しているのを聞いて、同感同感。お皿があったら欲しいなぁと、半ば真剣に思い巡らせながら会 場を出ると…ミュージアムショップで、フジタの描く猫を絵付けした食器を見つけてしまったのです。さすが日本。
普段はポストカードぐらいしか買わないのですが…今回は別!
今年は本厄なので厄除けにと(意味不明…)干支である牛さんと猫が描かれたもの、そして実家用に小皿のセットも求めてしまいました。もうお皿は買っちゃダメって決めたのに、ね…。
書き初めなんかやってみましタ。
このクラス、この3月で卒業する人がほとんど(数名のみ日本語学習続行)なんですが、会うのはお初。新年てなわけで自己紹介代わり(なるか?)に書いてもらいました。
一人、ある大学を受ける学生が一生懸命「創価」と何度も練習していたり、「光」と書くのかと思いきや「光栄」と仕上げてたり(「栄光」?!)こんなに個性の出る書き初めはやっぱり「日本語学校」だからかもしれませんねぇ。
(以下、写真はクリックで拡大)
そのあとはお約束の初詣。毎年のことながら役目は「おみくじの翻訳」。どの国の人もガチャガチャと引いては寄ってきて、この日ばかりは私のまわりに行列ができ、私が口を開くたびに一喜一憂。それなりに真に受けて素直になっちゃいます。たとえ宗教が違っても、信じる「神」は同じなんだと気付かされる一瞬です。
やっと、やーっとブログに向かうことができました。いつの間にか季節が変わって年まで変わっていました。ひぃ。
書簡をやりとりする間柄の皆さんはご存知かと思いますが、昨秋引っ越しまして実家と引越し先を往復する日々が続きました。病気さえしなかったものの、もともと引越した理由というのが職場と家との行き来でほとんどの時間を取られてしまうからで、ブログどころじゃなかった感じです。その間にも映画製作の学校へ通ったり、北海道へポラロイドのイベントに出かけたり、雑貨の制作&販売をしたり…正直、目まぐるしいあまり、あまり記憶がありません。気がついたら2009年になっていたという感じです。
年賀状を送ってくださった皆さん、お心遣いどうもありがとうございました!ゆっくりですがお返事を書いていきたいと思っています。また、このブログも以前のように更新していけたらいいなーと思っていますので、今年もどうぞ宜しくお願いいたします☆
だいぶ前になりますが、「靖国」を観てきました。
そのストレートすぎるタイトルや内容から、一時は上映禁止に追い込まれた作品ですが、ドキュメンタリー好きとしても、仕事で日々東亜諸国の方々と顔を合わせる身としても、観ておきたいと思い。
私にとっては、ごくたまにしか行かない、行っても境内でお弁当を食べるとか散策するような場所ですが、毎年の8月15日には全く異なる表情を見せる場所。
監督が繰り返し使うのは、「靖国神社は様々な人たちが集うステージ」という言葉。日本では「終戦記念日」であるこの日は、韓国では××、中国では××…と、国によって捉え方も異なります。映画の中で映される様々な立場の人の涙や発言で、そんなことを思い出しました。
日本軍がアジア各国でしたことが「侵略戦争」という言葉で表されることがありますが、これは事実であると思います。実際に、名前を奪われ、言語を奪われ、思想を奪われ、果ては代々続くべき命まで奪われたのだから。先日の日韓の意識調査でも、「日韓の過去の歴史問題は清算されたか」という問いに、日本では6割の若者が「された」と回答したのに対して、韓国はわずか1割。李大統領の「人とケンカしたとき、殴られたほうはそれをずっと忘れないものだ」という言葉も呼び起こされました。
それをしたのは、私たちの父や母、また祖父母の代の人々。つまりほとんどが、国から命を受けた一般国民だったことを忘れてはいけない。軍国主義であった当時、「お国のために」と誇らしげに散っていった命もまた、被害者と言えばそうなのです。自由な思想、ペンや絵筆の代わりに武器を持たされ、隣人を尊び愛する代わりに命を奪うよう教えられた。そして何より大切なことは、物質的に豊かで便利なこの社会(平和ボケしているとまで外国諸国から揶揄されるほどですが)で私たちが生きていられるのは、その当時の人々の労苦、辛苦があったからこそなのだということをまざまざと見せつけられました。
この映画を見て、日本に対して愛国心が芽生えたわけでも、宗教について考え方がかわったわけでもなく、この映画の見所は、とか、印象に残ったシーンはと聞かれても答えられない。
観たあとで私が感じたのは、現代社会のひずみのような部分でした。多くの人たちが、ただなんとなく日々を生きているのだとしか思っていないことに非常に危機を感じました。最近、硫化水素だかなんだかでの自殺が多いのも、結局は自分のことしか考えていないから。そして何故自殺が増えてしまったのか真摯に受け止めず、闇雲に生活を苦しめる対応しかとれない政府にも憤りを覚えます。もっと身近に言えば、町中で誰かとぶつかったとき素直にごめんなさいと言える人がどのくらいいるでしょうか。優先席ではスイッチオフというシールを横目にケータイを眺めている人も多いです。 実際には、他人は他人なんだから、その人について理解することはできない。だから…と理由をつけて人と関わりを持つことを避けるようになってしまったと思います。いつの間にか私たちは、他人を避け、関わりを拒むようになってしまったのではないでしょうか。
この映画を観て、それではいけないのだということに気付かされました。まず監督が中国人であること。ここに私は惹かれました。普通であれば自分の国を苦しめた人物が「英霊」として祀られた場所へなど、行きたいと思わないはずで、私自身もよく教え子から「靖国なんて」と言われます。しかし彼は実に冷静にこの場を見つめているのが、映画を通して伝わってきました。そして、彼自身が「監督」という枠をとっぱらって、一個人としても中国人としても靖国と向き合う必要があり、その意義や回答というのもまだ出ていないように思いました。実は、私自身もそうです。この映画を観たから、靖国に対してどう思うとか、第二次世界大戦についてどう思うかという回答は、特に戦争を知らない世代には得られないかもしれません。でも、大事なことは、この映画を観ることにより、結論が出せなくてもいい、とにかく今までのように「よくわからない」で済ましてはいけないということ、何があったのかを知らねばいけないことでしょう。
印象的だったことを一つ。映画館を出たときに、近くにいたおっちゃんが、刀をぶんぶん振る真似をしながら、「こっちを言いたかったのか、『ヤスクニ』を言いたかったのか、意味がわかんねー映画だった」と言っていたこと。初めは「映画の見方も知らないおっさんめ」と思ったのですが、大事なのは、この映画は映画としては未完成で、観た人がどんな感想を持つか、それで初めて完結する、詩のような映画なのだろうと思いました。
こんにちは。皆様にお願いがございます。
(すでにご協力くださった方、ご存知の方はすみません)
生産終了となった、ポラロイド600フィルムを残すために、署名運動をやっています。
オンラインではなく、手書き署名です。
今日現在、日本国内の28の企業の方にご支援いただいております。
私は東京在住で、これまでに、渋谷、青山、原宿、恵比寿、中目黒、代官山、谷中、
根津、千駄木、下北沢&地元を歩き、30以上のカフェ、古本屋、古道具屋、服飾店(古着屋含む)、雑貨屋、レンタルボックス、インテリアショップ、
ギャラリーを廻り、店員さんやスタッフの方々にご署名いただきまし
た。フリーマーケットなどでも集めています。
でも、正直な話、目標数(1万名)にはまだ足りません。
署名は
今月いっぱいです。
そこで皆様のお力をお借りしたく、再びお願い申し上げます。
具体的には下記3点ご協力いただけますと嬉しいです。
*署名にご参加いただく。
(用紙は下記サイトからプリントアウトし、直接送っていただく。
または最寄りの署名協賛店や、今月行われるフリマでご参加いただく。)
*この活動や、フィルム生産終了のニュースを、できるだけ多くの方に
お話しいただき、知っていただく。
(都内各店舗の約半数の店長さん&店員さんがご存知ではありませんでした。
私は、気付かれないまま生産が終わって行くことが一番悲しいのです。)
*署名協賛店になっていただけるところを探していただく。
(都内を廻って交渉しておりますが、時間的にも、経済的
にも体力的にも限度があります。
「メールでいいのでは?」とお感じの方がいらっしゃるかもしれませんが、
スパム扱いされることもあり、直にお話させていただくほうがご理解いただき
やすいのです。
お店の方々にはお仕事中で申し訳ないのですが…。)
どうか、どうか、宜しくお願いいたします。
詳しくは下記サイトをご覧ください。
ポラロイドフィルムforever
http://
ご質問等あれば私に直接メールを送っていただいてかまいません。
qianhong☆tk2.so-net.ne.jp
☆は@に変えてください。
***************
また、協賛が無理でも、ステッカー(写真)を置くことができる場所をご存知の方
いらっしゃいましたら、是非ご一報ください。
極力邪魔にならないよう、500円玉よりひと回り大きい程度で、ポラロイド写真の中にQRコードが埋め込まれています。
このステッカーはすでに頒布開始しておりますが、都内の店舗にしかまだ置かせて
いただけておりません。
最後になりましたが、ご協力いただいている各店舗の皆様、個人の皆様、心よりお礼申し上げます。
あまり足を運ばないけれど、大好きな場所ってありますよね。
私にとって、それは「やねせん」。
いわゆる、東京の下町です。昭和のかおりが、そこここに息づいている。雨とネコが似合うまち。
いつも歩く道を、今日もてくてくと歩いていると、ちいさなお店が目に入りました。
構えは完全に「やねせん」ならではなのです。はじめは、着物屋さんかと思いました。でも暖簾の奥から感じられるのはヨーロッパの風。魅惑的とは、こういうことを言うのでしょう。中に入ってみることにしました。
ほの暗いなか、取り付けられたステンドグラスから差し込む可愛らしい光。昔ながらのランプ。畳、ちゃぶ台。そしてそこに並べられた、べったりとした赤桃色に、薫るような芥子色、コバルト、煉瓦色…踊るようにカラフルな花模様の生地たち。吸い込まれるかのように、目が釘付けになりました。
お店の中には、カウンターがあったのですが、あれれ、誰もいない??…っと、その陰から男の人がぬーっと現れたのです。
「わーっ!!」
「きゃー」
…お互いの存在に気付かなかった私もその人も、声を上げて驚いてしまいました。それがもう、可笑しくておかしくて、「すみません」と言いながら、笑ってしまいました。でも、そんなきっかけでお店の方が色々お話してくださいました。
店長さんであるその方が着ていたシャツには、ザビエルのプリントが。「おもしろいデザインですね」なんていうところから話が弾んで、それはもう楽しかったです。「キリスト教が禁止されていた時代に、もし禁止されていなかったら…」というのが店内のイメージなんだそう。衣類はベトナムの生地を使っているんだそうです。ベトナムと言えば、かつてはフランスの植民地だったところ。西洋と東洋の双方の味わいが、うまく生地に溶け込んでいて、お店のコンセプトにもぴったりです。
ほかにも、生活雑貨などもあり、男性も女性も楽しめる空間でした。何より、店長さんが本当に良い方でした。「今日は雨で閑古鳥だから」などとおっしゃって、谷中のことなど、たくさんお話いただきました。
谷中バテレン商會
東京都台東区上野桜木町2-14-2 ビラ桜木1F
12:00〜18:00(月&火定休)
www.bateren.com
Special Thanks to Yanaka Bateren Shokai.